「だが最後にもっとも私たちの身体観を揺るがす舞踏団として金満里率いる「態変」を挙げておこう。メンバーはすべて身体障害者である。金自身一人で歩くこともできない。十九世紀ならば異形として排除された身体だ。しかしその舞台はこれらの身体が正常であることを納得させる。それもイギリスの身障者舞踏団「カンドゥーコ」のように健常者と同じ動きを達成してみせることによってではなく、健常者にはできないダンスをやって見せることによって。態変を見るとカンドゥーコの身体観がいかに保守的であるかがわかる。
カンドゥーコは身障者だって健常者と同じことができましたという美談で感動を呼ぶ。そこでは健常者の身体が標準であることが暗黙の前提となっている。しかし態変は両者の身体が異なることを前提に、それぞれの身体に独自のダンスがあることを示し、その意味で両者に違いがないことを納得させるのである。観客は「標準的な身体」という観念が健常者の思い上がりに過ぎないことを理解する。そして一言で障害者といっても態変のメンバーの身体が一人一人ユニークであることから、いかなる身体もみなそのままで正常だということを知るのである。」(「大航海」2000年8月号)
この劇団を招聘した奈良の教育委員会も「身障者の身体の動きがいかに美しく、そして力強いものか」という紹介をしていた。障害者の身体が、障害者であるからこそ、身体の「身体性」とでもいうものを掘り下げて表現しているというのである。その趣旨は、劇団自身が表明してもいるもので、反対するいわれはまったくない。ただ、ここで身体、身体といわれているもの、その「身体性」とでもいうべきものの性格について、少し考えてみたいとは思う。
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