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森総理の退陣がようやく具体的な日程として上って来たようだが、不思議なの は、彼を降ろそうするその理由が、彼の「失言癖」に求められていることだ。 問題は、彼が「失言」することにあるのではなくて、彼が「そう思っている」 ことにあるのではないとのか?

奇妙なのは、あたかも彼が「そう思っている」のは周知の事実であり、しかも 「そう思っている」ことを取り立てて難詰するつもりはない風なのだけれども、 皆が上手に隠していることを彼がぼろぼろと喋ってしまうので、周りは困って しまっているという風なことだ。もう少し丁寧に考えれば、ここで周りと言っ ているのは勿論自民党周辺のことで、野党とマスメディアは、タテマエ上「そ う思っている」こと自体を問題視する立場であるので、失言家が「失言」する と、ほら見たことか、ここぞとばかりに難詰するのではあるけれども、それが 「失言謝罪」となると矛先を納めてしまう。ここには実に奇妙なゲームが行わ れているようで、このゲームの原理がどのようなものであるのか、どうにも理 解しきれない。ここは「社会人」として是非ともこの原理を語ってみたいと思 うのだけれども、難しいのである。

以前にも、「常識について」というエッセイで、同じようなことを書いた。内 容は以下のとおり。

   
text/キムチ

キ ム チ p r o f i l e

 

 

「何が「常識」で何が「教養」か、ジャーナリズムが語ることが「常識」ではない、時には教科書に書かれていることにすら嘘があると、保守の論客は語る。私がどこかで学んだとことといえば「すべての人が正しいと思うことはファシズムである」ということであるけれども、その意味からすれば「常識」や「教養」の闘争状態は、まだしも健全な状態といえるのかしら。

西村ナニガシという政治家が問題発言をして、セイムジカンか何かを辞めさせられましたが、ある大学の先生は、「個人の発言としてはいまでも正しいことを言ったと思っている」という彼のその後の言葉に大変な憤りを語っていました。政治家の発言に「個人の発言」も何もない、というのがその先生の意見のようです。

けれども、なるほど「個人の発言」であろうと何であろうと、西村ナニガシの発言はひどいものだと思うけれども、「これが私の意見だ、議論を喚起することが何が悪いのだ」という彼の意見にも一見の価値はあるように、私は思ったのです。

というのも、こういう発言が過去にも何度も飛び出しては、内外の顰蹙を買い、その政治家が更迭されるということは繰り返し起こっているわけですが、それは自民党の内部にそうした意見が少なからず明らかに存在しているということを示しているだろうからです。だとすれば、それを明らかにすればいいじゃないか。

そう思うと、自民党なり、政府なりが、どうしてこれまでそのことを隠そうとしてきたかということの方が、いぶかしく思われてきたりするのです。ここには、「個人」と「公人」(あるいは「政治家」?)との関係のように「自民党」と「政府」との関係があって、「自民党」としては核を持って、国旗掲げて戦争しに行ったら良いと思っているけれども、「政府」としては決してそんなことはないといったことなんでしょうか。(もっとも国旗は掲げることになったけれども。)政府は非核三原則は遵守すると言っているけれども、それが何故で、実のところどう思っているのか、どうもよく分からない。

問題は世論なのか、あるいはアメリカやアジアの感情なのか。取り締まるべきものが猥褻だとすればヘアーはもはや猥褻ではなくなったようであるけれども、いったい何が「常識」であるのかはっきりさせてもらいたい。」

ここで書かれているのは、自民党としての「ホンネ」と政府としての「タテマ エ」があって、自民党としての「ホンネ」は政府としては「タテマエ」上、語 ることが出来ないということだとして、それはどうしてなのか、世論を気にしてのことなのか、アメリカやアジアを気にしてのことなのか、その辺がよく分からない、ということだ。

どうやら、自民党ということころは、党としての決まった政策のないところで あるようなので、自民党としての「ホンネ」が実際に「ある」という訳ではな いというのが正確であるにせよ、こうした「ホンネ」と「タテマエ」のギャップがあるからこそ、「失言」という独特のタームが現れていることも確かなことだろう。

とするならば、これはいわゆる「ホンネ」と「タテマエ」という、「大人」の、「社会人」的な処世術に関わることがらなのか。もしかして、その辺のことを つついて考えてみても退屈な話を繰り返すことにしかならないのだろうか。(いや、そもそも「社会人日誌」などというタイトルが、退屈を背負い、退屈 を覚悟のものであったはずではあるけれども。)

考えを整理するために、何かものの本はないかと本棚を覗いてみる。丸山真男 の『日本の思想』には「ホンネとタテマエ」という項目はない。あったあった。 ずばり加藤典洋の『日本の無思想』(平凡社新書) は、政治家の失言問題を 「ホンネとタテマエ」という切り口から取り上げている。

取り上げられているのは、例えば「南京事件はでっちあげだ」とした1994年の永野茂門法相や、1993年の中西啓介防衛庁長官の憲法軽視発言などなどだが、加藤典洋の言うところを拾う前に、森首相自身のことを書いておきたい。

というのも、森が首相に選ばれる前に、私は仕事のつきあいで、あるスポーツ 選手出身の政治家のパーティーに出席することになり、そのパーティーの主賓 が森だったからだ。森が主賓として呼ばれたのは、参議院戦の全国区が採用さ れた当時に、全国的な知名度の高いタレントやスポーツ選手を立候補させたほ うが有利であるとして、そのスポーツ選手を口説いた本人が森であったからら しい。

私は森の挨拶に呆れてしまい、こいつは駄目な人間だと思って、だから首相と して森の名前が取りざたされたときにも、こいつだけにはなってもらいたくな い人間が首相になったと思ったものだった。私が呆れたのは、その政治家を、 スポーツ選手出身だから政治に関しては素人だけれども、最近はいろいろと頑 張ってくれている、という内容の発言をしたことであった。当人同士の間でど んな話があって、どういう関係が結ばれているのかは知る由もないけれども、 仮にも自分がお願いして政治家として出馬してもらった人を、政治の素人だと 言ってのける神経が私にはまったく理解できなかった。おそらくは、要するに、 こういう軽薄な人なのであり、彼に失言癖があるというのも、実にこういうと ころに表れているのだろうけれども、問題はそれを「失言」ということで終わ らせて良いのかということであった。

その辺のことを詳しく考えてみるのは、次回に回そう。

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