しかし、森が、そのとき語ったことは違うことだ。彼はその元スポーツ選手が、元スポーツ選手であったから、政治家としての資質は疑わしいということを言ったのだ。最近は、あるスポーツをめぐる公的賭博制度をめぐって汗を流してくれているので、これからの活躍に期待したいなどということを言っていたのであるけれども、どうやら彼として、十分な働きをしてくれていると満足しているとは限らないようなニュアンスを感じさせる、その政治パーティーでの発言だったのだ。したがって、森は「ホンネ」としてスポーツ選手に政治は無理だと考えている。しかし、森が、その彼を政治家として担ぎ出したのだから、担ぎ出した者として当然森は彼の政治家としての働きに「責任」があるだろう。そもそも「ホンネ」としてスポーツ選手に政治が無理だと考えているのなら、彼を担ぎ出したこと自体が「間違い」である。森は、「タテマエ」として、その元スポーツ選手の資質を信じ、信じていると発言しつづけるべきである。多くのタレント議員や有名人議員を担ぎ出した自民党は、もちろん、彼らにはその世界での業績があり、その業績を持って政治の世界での活躍が期待される、もしくは、彼ら自身が優れた人たちだからこそ、自民党は彼らを推薦したのだといったことを言いつづけるだろう。これが自民党の「タテマエ」であり、それはほとんどの人には見え透いた「タテマエ」であるが、この手の「タテマエ」は良くあることなので、誰も取り立ててそれに目くじらを立てないような「言葉」なのだ。にも関わらず、森という人は「あからさま」にその「ホンネ」と「タテマエ」のギャップを暴いて見せたので、私は呆れてしまったのだ。ある意味で、森は正直だと言えるだろうか?1986年に「日韓併合は両国の合意のもとに行われた」として、日本の侵略行為についても「韓国側にもやはり幾分かの責任なり、考えるべき点はある」と発言した藤尾正行文相(当時)を結果的に罷免した当時の中曽根首相は、そういう論理を持っていたのだろう。というのも、『日本の無思想』の加藤典洋によれば、中曽根は罷免に際してこう発言しているからだ。「個人的な歴史観として発言は理解できるが、大臣としては被害にあった国民に配慮すべきであり、発言は妥当でない。辞任してほしい。」「つまり、中曽根は、自分の信念に照らして藤尾の発言は認めがたい、といっているのではないのです。そこで、中曽根は、自分も、個人としてなら、かつて青嵐会という自由民主党内の組織で盟友だった藤尾の政治家としての発言は、「理解」できるし、またこれを一個人の発言としてなら、首相としても、「理解」できる、というのです。しかし、藤尾発言が、大臣としての公的な発言である以上、これを自分が首相として公的に受け入れることはできない、したがって、自分は、公人として公人としての藤尾に辞任を要求する、というのが中曽根の理屈なのです。」と加藤は書いている。つまり、藤尾は正直に「ホンネ」を語っただけのことだ。けれども自民党の「タテマエ」として罷免する、と。同様の論理の中に、戦後の自民党、そして日本の政治とマスコミがどっぷりと浸かりこんでいるといって良いのだろう。ホンネとタテマエがはっきりと分かれ、そのギャップを糊塗することが政治であるというような論理がである。
森がマスコミの話題にのぼる機会もあと少しで終わることだろうから、森の「有名性」でこの話題を引っ張れるのもあと少しの間である。したがって、私は結論を急ぐべきであるが、長くなりすぎるので続きはまたにしよう。しかし、このことは書いておかなくてはならない。まず森は、もちろん正直者なのである訳はない。正直者であるのなら、まずスポーツ選手に政治は無理だということを最初に表明し、彼らを担ぎ出すことをするべきでなかっただろう。にもかかわらず、なぜ自民党は彼らを担ぎ出したか。自民党は、選挙に勝つということが、政治家の資質の問題ではなく、むしろ有名性の問題であることをよく知っているからだ。それとも森は、自分は君たちに政治家としての何かをちっとも期待してはいないが、選挙に勝つために手を貸してほしい。しかし政治の世界に入ってもらう限りは、この世界のしきたりにしっかりと従ってもらうよ、それだけの見返りはきっとあるだろうから(あるいは、約束する)、といったようなことを彼らの耳元に「正直に」囁いたのだろうか。その程度のことはあったとでも思わない限り、あの平然とした森の態度も、その屈辱的なパーティーの席での挨拶を忍従した元スポーツ選手の態度も理解できない。この問題は、見かけほど簡単ではない、というべきだ。何故なら、その屈辱を忍従する元スポーツ選手の態度を、しかし私は「社会人」としてまったく理解できないとも言えないからだ。それは、結局のところ、ある組織の中におかれた人間の立場であり、態度としてである。潔癖な人として、唾を吐きかけてこの問題を打ち捨てるべきであろうか。いや、そうとも限らない、というのが『日本の無思想』の加藤典洋の立場だ。私としては、こう最後に書いておかなければならない。あのパーティーの席で、どれほどの人がそう感じたか知れないが、森の発言は人を馬鹿にしたものである、と私は思った。しかし、それを忍従した元スポーツ選手の気持ちも理解できないではない。だからこそ、余計に森の態度は許しがたいのである。もっと突っ込んで、こう考えるべきではないか。森の発言を、屈辱的なものとも感じずに、それが許されてしまうような風土こそ、この国の政治と、いまやこの国自体を駄目にしている。
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