Kは、NAMの話を聞きながら、どうもその話がうまく行く気はしない、という。なるほど、NAMがうまく行くものかどうか、私にはさっぱりわからない。しかしうまく行かないと感じるのは、ではどうしてなのか。「それに、」とKは、やや語気強く言い加える。「対抗して撃たなくてはならないのは、問題のありかは決して国会ではないで。官僚や。」と。彼はウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』を読んでいて、その事には一家言を持っているのである。ただしかし、ウォルフレンを読んだから、Kは得意になってそれを言い募っているというわけでもない。日本という国が、公のために私を殺すことを強いる国・社会であるということは、彼のいわばライフワークなのだ。小学校以来、Kと付き合ってきて、Kがそれを言いつづけることの意味を、私はある程度理解できるつもりである。Kは、精神科医となってクリニックを持った今も、このことを課題に仕事をし、生き続けているようなものだ。
ところで、しかし、官僚をコントロールする手段は、一般的には国会の議員の力を強くすることであり、そこで民意をより良く反映させるようなシステムにすることである。Kもまた、この国の中で、例えば薬剤エイズ禍に対する国家への対抗的な市民運動の中に、これまでとは違った動きの兆しがあるような気がするという。しかし薬剤エイズの運動もまた川田君のお母さんを国会に送り込むことに帰着しているではないか。すなわち、それが市民運動の至りつくひとつの帰結であって、そのこと自体が悪いことではまったくない。しかし、NAMはそれをしないといっているのであって、問題のありかはどこかですれ違っているのである。
薬剤エイズ問題は、小林よしのりがコミットして、一定の成果が上がったときに、彼は、学生たちに、運動を解散して日常に帰れと言って、運動から離れた。そこから、川田君のお母さんの立候補と当選への道のりは、ひとつの必然的でも典型的でもある成り行きで、それがこの先、既視観に付きまとわれた退屈なお話の中に埋もれて忘れ去れてしまうだろう事は、予想できてしまいそうだ。まず我々は、ひとりの市民として、民主主義という社会システムを持っており、その民主主義がある程度の確度で機能するよう、行動し、監視する必要がある。
Kの言っていることは、そのような欧米型の市民社会にも、日本という国はほど遠いということである。日本という国は、民主主義を謳うほどにも成熟していないと。なるほど、Kの言うことは分かるつもりだ。しかし、例えば私は、そのような行動原理を貫き、貫くことによって、さまざまな問題を解決することができるだろうか。それについては、また改めて考えることにしよう。
このページの先頭へ
[過去の日誌]
12/28 | 02/04
| 01/18
| 03/03
| 03/11
| 03/19 |