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 光景に心がときめくということがある。なぜだかは分からない。ただその光景が妙に心を引くということがある。
 先日用事があって車を走らせていると、最近常磐線沿線に新しく出来た駅の近くに出た。時間はお昼ごろで、駅のホームが道路からも見えたが、ホームに人はまばらだった。そこへちょうど貨物列車がゆっくりと入ってきた。そしてぼくはドキッとした。ただそれだけなのに。ただそれだけの光景なのに。なぜだろう。
 これは暑い季節でなければならない。そして時間は昼ごろでなければならない。ホームに人はまばらでなければならない。そこへゆっくり入ってくるのは貨物列車でなければならない。なぜだかは分からない。しかしぼくにとってはそうなのだ。そういう光景がぼくをドキッとさせるのである。
 きっとぼくの心のどこかに、そういう記憶があったのだろうと思う。平日の午後あたりに、人のまばらなホームに佇み、ゆっくりと貨物列車が入ってくるのを眺めていたような記憶が。そしてきっと誰でもそういうものを持っているのだろうと思う。
 例えばそれが大切な女性と別れた後に目にした光景だったのかも知れない。人生の失意の時に見た光景だったのもかも知れない。あるいは、そんな重大な事件がなかったとしてもただ寂しく眺めていただけなのかも知れない。いずれにせよぼくたちの心はそんなかそけき思いに満ちていて、時々思いがけない時にきらきらと光る。
 それに何と言ってもそれは鉄道でなければならないのだという思いもまたある。

 駅、貨物列車、鉄路、線路、列車、プラットホーム。鉄道にまつわるイメージを我々は数限りなく積み上げてきている。積み上げてきたイメージの量では自動車は鉄道に遙かに及ばない。ぼくは以前、鉄道にまつわる歌や物語は多くあるのに比して、自動車にまつわる歌の量が少ないことに気づいて、鉄道のイメージ学という猟歩が可能ではないかと真剣に考えたことがある。
 今度出版した詩集の中でも、それを試みた。「春の星座」という詩では鉄道のイメージを使用し、「梅雨のかけら」という詩では自動車のイメージを使用してみた。これは、エッセイの形ではなく詩の実作の形での、ぼくなりの試作であった。
 さて、前述の駅のあたりから少し車を走らせると、「○○跨線橋」という看板が見え、またドキッとした。跨線橋!
 イメージの多義がまたしてもきらきらと光ったのだと思う

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