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 小学生のころぼくは少年万引き団の首領だった。
 ぼくは小学六年生で、近所の2年生ぐらいから5年生までの少年を引き連れて近所で遊んでいた。あたりは田舎の風景で田んぼや畑ばかり。畑にある梨などの果物を盗み、蓮畑に入って蓮の茎を竹の棒で薙ぎ倒した。蓮は茎を切ってしまうとそこから腐って終いには売り物の根の部分もダメになってしまうから農家にとっては被害は甚大で、一度こっぴどく叱られたことがある。父親がその家に謝りに行ってくれた。
 そのうちに賽銭箱から賽銭をくすねることを覚えた。神社に入っていって賽銭箱から賽銭を抜き出すのだ。いずれも神社や社で、別に人が常時いるわけではないので簡単だった。賽銭箱の鍵だって、壊れていたりあるいはちょっと力を入れるとすぐにはずれたりしたから雑作もなかった。しかし田舎のそんな神社の賽銭箱にそんなにたくさんの賽銭が入っているわけではない。十円玉が数個入っているくらいだった。

 だんだん遊びはエスカレートするもので、次に思いついたのは近所の雑貨屋で万引きをすることだった。近くに婆さんが一人で店番をする雑貨屋があった。子ども相手に駄菓子を売るような店だった。本家から分家した家という意味で、「新たな」という名前が付いていたが、ぼくらはそんな名前ではその店を呼ぶことはなかった。「新たな」をわざと訛らせていつもキンタマと呼んでいた。その店はぼくらの主要なターゲットとなった。
 他にもう一軒雑貨屋があって、こちらは幾分大きかったが、子ども相手の駄菓子と近所の大人相手に食料品などを商っていた。ここもぼくらのターゲットとなった。
 数人が買い物をしてお金を払う。そのなにがしかの間に他の子供たちで商品をくすねるというのが基本的なテクニックだった。チョコレートなどの菓子類の他にチーズやハムのようなものまで持ってきてしまうこともあった。ぼくらは盗ってきた戦利品を食べながら、暗くなるまで畑の隅に積んである藁の束の上でプロレスごっこをやり、夕焼けを眺めながらバックドロップをかけあった。

 小学2年生が万引き団の最年少だった。そのことをよく覚えているのは、その小学2年生が自分の弟だったからである。
 しかしいつまでも僕らの黄金時代は続かなかった。
 ある日、ぼくは一軒の店で万引きの現場を取り押さえられた。店の主人はどうも前々から腹に据えかねて捕まえる機会を狙っていた気配がある。そしてまんまと現場を取り押さえられたというわけだ。ぼくたちはこっぴどく叱られて「親にも話す」と宣言されたが、何も言い返すこともできずそのままうなだれて家に帰った。冬のある日だったのをよく覚えている。なぜなら家に帰ると炬燵があって、その炬燵の中に弟が隠れていたのを見つけたからだ。弟に捕まったことを話すと弟は驚いた様子で実は自分も「新たな」の方で今日捕まったと言うのである。
「あんちゃん、オレもつかまっちゃったよお」
 情けない声で弟は兄に告げたのだ。
 そして二人でいつまでも炬燵の中に隠れて、これから起こるだろう修羅場を思った。夕方になって、ぼくを捕まえた店の主人が家に入ってきた様子があった。ぼくの父親になにやら話をしていた。そして少しして去っていった。
 それきりだった。ぼくらは父親に何も言われなかった。父は何事もなかったように、食事をしそのままその日は終わった。本当にそれきりだった。
 父は厳しい人で、怒られたことは何度もあった。その父のことだから、どれほど手厳しく叱られることかと弟もぼくもびくびくしていたのだ。しかし結局父はそのことについては何も言わなかった。それは、子どもにすれば怒られるよりも不気味なことで、何も言わないことが強烈にして温かい叱責になっていた。
 もちろんぼくらの少年万引き団はその日を最後に、再び活動することはなかった

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