夏の間、庭に咲いている百日紅の花が散るのを見ていた。満開の花がはらはらと散っていくのである。風が吹くわけでもないのに花が散っていく光景は確かに美しい。
はらはらと散ると言えばやはり桜の花を思い起こす。
いつだったか、仕事の用事で水戸に行き、思いの外用事が早く済んだので偕楽園に散歩に行った。偕楽園の入口には神社があって境内には桜が咲いていた。もう4月も中旬で花はしきりに散っていた。むしろもう桜の季節は終わろうとしていた。
曇っていて小雨が降り出した。小雨の中で桜の花は切りもなく散っていた。ぼくは何ということもなしにただそれに見とれていた。
「貴様と俺とは…同期の桜…か」
場所が神社だったせいだろうか、そんなことをひとりごちた。散り際の美しさ。その桜のイメージを使い、巧妙に作り出されたイメージ。
「…咲いた花なら散るのが桜…」
いったい誰が作ったのか。
「みごと散ります…国のため」
美しいイメージはその美しさゆえに一方でその美しさに心の全てを支配されない冷静さを持つ必要があるだろう。
そんなことを考えてここまで書いたところで、世界を震撼させるニュースが飛び込んできた。言うまでもなくアメリカにおける同時多発テロである。次第に容疑者や背後関係が明らかになりつつあり、9月13日時点の報道ではアメリカ議会は武力容認決議をしてアフガニスタン包囲網を敷きつつある。日本でも小泉首相がいち早く報復指示の表明をして、石原都知事は「殴られたら殴り返すのは常識」というような発言をした。
テロは許すことが出来ない。断固とした姿勢をとるべきだということも当然のことだろう。だが問題は断固とした姿勢とは何かということだ。それは軍事的報復を指すのか、法的な裁きを指すのか。
一方、事件を巡る様々な局面が報道されている。
ハイジャックされた旅客機の乗客は、携帯電話で家族と連絡を取り、ハイジャッカーと戦うことを告げ、妻に生まれたばかりの娘を託しつつ「良き人生を。娘を頼む」と言って電話を切り、その数分後に飛行機はペンシルベニア州に墜落したと言う。その情景を思い浮かべれば目頭が熱くなる。
しかしその美しさを利用してはいけない。それはむしろ死者に対する冒涜にさえなりうる。
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