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 中学を卒業するときに色紙にみんなで何か書きあった記憶がある。最初は友人同士で書いていたのだが、先生のところにも持っていって書いてもらった。たいていは、「努力」とか「成せば成る」とか、そういうことを書くものだが、ある先生がぼくの色紙に書いてくれたのは「明日の希望より今日の絶望を」という言葉だった。
 ずいぶんとかっこいい言葉だなあと思いつつ、忘れられずずっと覚えていた。でもその意味するところは何となく分かるようで分からない、あるいは分からないようでいて何となく分かるような、つまりは曖昧模糊とした感覚の中で言葉を覚えていた。
 もう三十歳を過ぎてカウンセリング関係の勉強をしなければならなくなって本を色々と読み、また実習を受けていた時期にその言葉をふと思い出した。嘘のように聞こえるかも知れないが、ぼくはその時夜の駅のホームで電車を待っていた。本当の話だ。その時ぼくの立っているところに入ってきたのは次の電車ではなく一陣の風だった。本当にそう思えるくらい唐突にその言葉が甦り、一瞬にしてその意味が理解出来たと思えたのだ。その場面まで覚えているのはその時の印象が強烈だったからだろう。
 だからちょっとだけ心理学的な言葉遣いで語ろうと思う。
 人が自己認識を深め成長としての人格変容の端緒につけるのは自己洞察の眼差しを深めるときだが、それは往々にして苦しみを伴うので、自己洞察の方へ眼差しを向けるよりも容易に明日の希望を語ってしまう。
 つまりこういうことだ。何か苦しいことがあったときにその原因や理由を深く分析することはしばしば自分の暗部へと探りを入れることになってしまうので、それを避けて明日頑張ろうという言葉で置き換えてしまう。明日頑張ろうという言葉は気分を変えて新たな希望の方へ自分を奮い立たせていくことになるから、あながち悪いことではない。だから人は非常に容易くそうした方向に自分を向ける。
 だが時に人は、自分の今日の絶望をじっと見つめる時間を持たねばならないのではないか。安易に明日の希望を語る前にそこに踏みとどまることが必要なのではないか。カウンセリングの過程で出てくる自己洞察などというものはまさしくそういうものではないのか。
 そんな思いが一陣の風のように駅のホームに佇むぼくの足下に吹き込んできた。
 中学を卒業して何年になろうか。二十年。なんと迂闊な。あの言葉を理解するのに、二十年もかかったとは。風が吹いてきた線路の方を見ると、暗い中にいくつかの灯が見えた。長い間、か細く点ってきた灯のように思えた

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