who?

  8月某日 快晴  

 

7月某日 曇りのち豪雨

8月某日 薄曇り

9月某日 曇りのち晴れ
9月某日 晴れ

10月某日 曇り

11月某日 快晴
11月某日 快晴

12月某日 晴れのち雨
12月某日 晴れ

2月某日

 

 

 品川駅を降りると、目の前の横断歩道へとわたしの足はなんの躊躇もなく運ばれていく。
ひとの流れもそうすべきことが当然といったようにその横断歩道へと流れ、同じくらいの人もまた流れ込んでくる。東京の玄関口のひとつではあるが、めったに降りることのないわたしには馴染みのない駅である。めったに行くことのない場所とは、近いところにありながら訪れると旅情さえ感じさせる。海や空港が近いことと、小高い丘を有する屋敷町が近いことが、その空を高く感じさせ空間を広げているようにも思える。横断歩道を渡る短い間、わたしは二度ほど小さな声をあげる。知った顔をふたつも見たからだ。だが、どこのなんという人なのか思い出せない。確かに知っている人物だ。もしかしたら、いままで一度だけどこかで会った人なのかもしれない。記憶の中の黒い粒子は確かに、その像を見知っているのだとざわめく。ふと、まわりの景色がフレームの中に入り込んでしまう。わたしは、少し遠ざかってそれを見ているような感覚にとらわれる。わたしの知らないわたしの記憶がどこかに存在して、ときどきこうして断層を送ってくるのだろうか。
 友人から渡されたDMの地図を確かめることもなく、ある詩人の詩集の刊行記念の為はじめて訪れる古書店へと向かう。まるで何度も通ったことのあるような足取りで、横断歩道から右にそれたゆるやかな坂をのぼりはじめる。その間にもまた数人の見知らぬ知人とすれ違い、その度に振り向くのだが、彼らは視線を動かそうともしない。そうだ。きっと、死に行くとき、わたしはこんな坂をのぼっていくのではあるまいか。そして、いままでの人生の中で少しでも言葉を交わしたことのある人とすれ違っていくのではないだろうか。ふと、そんな気持ちに捕らわれる。死への道程は、こんなふうに街路樹と車道を隣として、少しばかり強い西からの光を頂点から放つ緩やかな坂のようなものなのではないだろうか。
 この数日間のわたしは、色のない喪服を着ているようなものだった。なぜなら、数日前に友人Sの自らの死を知らされており、そのことは実にわたしの生活のどの場面にも強い影響を与えていたからだ。
 たどり着いた古書店でひととおり展示を見終わったわたしは、その書棚にある本をみつけ吸い寄せられるように手にとる。ダレルの「黒い本」。カバーを外してなかをめくってみる。ふと、解説にダレルではなく、ダールという読みが正しいのだという記述をみつける。そこでまた記憶の粒子がざわめく。Sが貸してくれた本のなかに確か、ダールという名があったはず。ゆるやかな坂道、見知らぬ知人、黒い本、死んだ友人。Sを中心として、わたしの中に、正体のわからぬ重たい影に対する畏怖の念がざわざわとこみあげ、たまらなくなってその本を棚に戻す。彼が死を選ぶ数日前、同じ番号の電話が何度もかかってきていた。電話の音を聞いて誰からのものなのかわかるときが度々あったわたしは、その記憶にない番号をディスプレイの中に見て、何故か、数カ月前に引っ越したSではないかと思った。それから、数日間、日に何度もその番号から電話はかかってきたが、わたしは一度も受話器をとらなかった。Sに聞かされる病的な同じ話の繰り返しを、また聞くことになるのが苦痛だと感じたからだ。この恐怖の内訳は、鳴り響く電子音を聞きながら、何度も闇の中に彼をつきおとしていったかもしれないことに対するものだ。わたしは、いたずらな冷徹さで彼が死へと導かれる力に加担したかもしれないということを恐れている。そこには、死者を弔う気持ちなどみじんもないのだということにがく然として、ふと見た鏡の中に冷たい自分の表情を見つけたときのように嘔吐してうずくまる。やがて気を取り直したわたしは、Sの分身だとも思えた“黒い本”を置いて立ち去ることが出来ず、それを購入して書店を出る。
 さっき登った坂を今度はすこし余裕をもって降りてゆく。登ったときとは、まるで違う空間のように、すれ違う人々はただの見知らぬ人たちであり、雑音は雑音のままもうわたしの中へ入ってはこない。図らずも重たい屍をあずかってしまったような気持ちで、さっきまでわたしのまわりを取り囲んでいた死のイメージをゆっくりと反転させて封じ込めてゆくその黒い小さな塊を、ぐっと抱きしめSの魂の昇天を祈る

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