麻婆豆腐があと少しで出来るというとき、仕上げのかたくり粉がないのに気が付き、駅前のスーパーへいそぐ。住宅街の夜道は暗く、夜中でなくともしんと静まり返っている。昼間だって静まり返っているような街だ。目的の物を手に入れ、いそいで家へ戻ろうとした途中の道で、「ちょっと、すみません」と声がする。「はい」と振り向くと、薄暗がりの中に、もしかしたら日本人ではないのかな、と思えるような黒い彫りの深い顔をした小柄な男が立っていた。全く人通りのない場所でもなかったし、無視して何か起こることのほうがこわくて一応返事をする。「なんですか?」大抵の場合、道をたずねるだとかそんなところだから。この辺りはまるで建物の特徴がなく、同じような家が幾筋もの通りに並行にならんでいるため、案外道に迷う人がおおい。「売ってくれませんか?」「え?」「もっているでしょう?」「人違いです」と言い捨てて、早歩きで立ち去ろうとすると、男は泣きそうな顔になり「違うんです。間違いなくあなたですよ」「売るって何を」少し強くいってみる。実際、わたしより背の低いこの男は、それほど怖くはなかった。目の焦点もあっている。ただ、黒目と白目の区別がつきづらいほど白目が濁っていた。「まぶたの裏の赤い月を売ってくれませんか」嘘のように通り過ぎてしまったあの猛暑のなごりのような、熱い風がふいた。男はわたしをじっと見た。まるで、わたしの内臓まですべてを知っているというふうでもあり、なにもしらずに来たのだととぼけているような目でもあった。「ああ」わたしは間の抜けた返事をする。「何でそれを?」「実は、もうお金は支払ってます」「誰に?」「彼に」わたしは、すべてを理解し力なく言った。
「わかりました。 どうぞ、 持っていって下さい」「ああ、よかった。彼はあなたに何も話してなかったようですねえ」 「ええ」男は少し憐れむような表情になって微笑んだ。「では」
「ええ、さようなら」足早に去っていく男の後ろ姿をしばらく見送った。赤い月のお伽話をしてくれたのは 500キロ離れたところに住む恋人だった。本当の片割れと愛しあったあとには、まぶたの裏に赤い月が見えるのだと言った。わたしたちは試してみた。案の定わたしはその日から、まぶたの裏に真っ赤な月が見えるようになった。彼は、わたしにくちづけたまま話をつづけた。西の国で二千年前に亡くなったある国の王様がね、その赤い月を集めているんだ。いまでも亡霊となって。でも、渡してはだめだからね。絶対に。わたしは、おかしくなって笑いだした。あなたのそんな作り話が大好きだわ。と言って彼を抱きしめた。わたしと彼がそれを試してみたのは、その一度きりであったのだけど、目を閉じれば赤い月が暗闇に浮かび、その中に映像を再生しているように何度も鮮やかなまま愛しあった時の事が蘇った。家にもどって、麻婆豆腐のことも忘れ、彼に電話をしたが、自宅も携帯もつながらなかった。メールも送ってみたがまるで応答がなかった。目を閉じてみると右のほうにだけ、赤い月が見えた。インクが足りない印刷のような映像がしばらく続いてやがて消えた。
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